昭和40年01月09日 夜の御理解
信心に入らせて頂いたら、先ず疑いの雲を払えとこう仰る。疑いがあっては、おかげは受けられません。疑うてかかったら、折角のおかげも消えてしまいます。ですから、先ず、その疑いの雲を払わして頂けるだけの信心を頂かなきゃいけない。ね。初めから、疑うな、私を信用しなさい、ち言ったって、なかなかねえ。そう信用されるものじゃないですけれども、そのためにやはり、研究しなければいけません。全く疑う余地がないというところまで信心を、お互いひとつ進めなければいけません。ねえ。
でなからなければ、いわば素直にゃなれません。ただ、生まれつきあの人はおとなしいとか、素直とか言うのとは違うものね、お道でいう信心の素直さというのは。だから、その、疑いの雲というものを払わせて頂くだけの信心。ここでそれを、先ず、頂かなきゃいけません。ね。半信半疑だったら、おかげも半分、と仰るのですから。ねえ。そのまま信用させて頂いて初めて、そのままのおかげになるのです。
今日はあちらの下関、それから門司あたりからお参りがあった。熊本からも今日初めての方がお参り、お礼参拝をしてみえられた。下関の方なんかの場合は、お孫さんが生まれつき失明しておられる。目が見えない。現代の医学ではどうにも出来ない。まあ医者が慰め半分のような事を言うけれども、親としてはどうかしてやりたい、という訳なんである、ねえ。まあ十四、五にでもなられて、本人の子供さんが精力どもが出来たら、ひとつまあ手術でもなさったら、ちゅうぐらいにしか言わなかった。
それでもなんとかと言うので、熱心に親子とも、ある教会で信心をなさっておられます。もう、お祖父さんも、息子さんも。私は御本部でお目にかかったし、息子さんはここにお参りしたことがありますが、もうそれは、ほんとに、やはり本部のご用要員で、親子ともだそうですからね。本部でも認められるほどの信心を頂いておられるのだけれども、現代の金光教のね、いわば、ま、迷信ちゅうとおかしいけれども、迷信を、迷った事を、本当ではない事を信じきっておってから、おかげにならん。
そりゃあもう、お取次のここのご様子やら、話やら聞くなら、もう、ほんっとにもう、水も漏らさんような人ですね。本部の、全国の金光教青年会の副理事をしとられます。ねえ。だからもう、詳しいという事においては、私共よりか詳しいぐらいに、いわば先生はだしのような、もう、今日も言うとられましたが、どこどこに講演に行っとると。お話にまわられるくらいに、その、いわば金光教の信心を身につけた方だけれどもです、私に言わせると、金光教的迷信を、いわば、身につけとるような感じです。
その証拠には、うたがいの雲を払いきらん。私がもう、ほんっとに、も、はっきり神様がです、その目は開くとおっしゃるのですもん。すがっておれば開くと。それは固いつぼみのようなもの、切り花のようなものであるから、徳の水、お恵みの水にしたらせておく《き》さえすりゃあ、必ず目は開くとおっしゃる。それをどうでもやっぱり手術をしてやりたいのが親心なんですねえ。
そんなら、万がいつにというので、もちろん請け合ってじゃない、そしてその事で、電話で何回も、その手術のことを、だから言われるもんですから、そんなら神様に、その、お願いしてということになったんです。ところがその、何回、手術の、その、行っても、院長さんが用事ができたとか、何か病院のほうの都合で、右左になって、その、手術が出来ないような働き。これなんか神様がですね、もう、いかに、この、働いておられたかちゅう、感じるんですけれども。
まあそん時、誰だったでしょうか。久保山先生か、久富先生だったでしょう。一番最後に、何回目かの時なんかは、「もう、これほど神様の働きを頂いても、分からんですか」ちゅうて申しました、と言うておられました。「もう、手術なさらんでいいとですよち」けれどもやっぱり、とにかく手術をされたんですね、片一方だけ。して、片一方が良かったら、もう片一方もするちゅうとこだったんですね。ところが片一方は、とうとう失明してしもわれて。
それから、間もなくしてからですね、おかげで片一方が見えだした。今日、言うとられますのに、もう自分で不自由せんくらいに見えるようになった。この頃は、【 】こう、おもちゃなんかやると、そこんところへ、ごそごそ這うていかれるという程度だった。ところが最近では、もう、それがもう、目では不自由せんぐらいにおかげ頂いた。「もう、本当に親先生、なら、仰る通りにしておけば、両方ながら失明せんで済んだのに」と、今日、言われるんですよ。ね。
これなんかはやはり半信半疑だから、おかげが半分になってしまった感じでしょうが。ね。だから信心とはですね、その、ほんっとに、そのままを疑わずに、迷いの雲が、疑いの雲が払えれるところまで、信心のけいこをしなきゃいけません。それだけ確信の持てれる、神様を頂かなければ、だから、いよいよの時は値打ちがないという事。今日、熊本からお礼に出てきた人は、もう、あれは何月だったでしょうかねえ。十一月か、そのくらいだったでしょうか。奥さんが胃ガンの疑いで、病院に入院した。
二度目にかかってきた時なんか、もう、何時間というぐらいに、もう、何時間の命と言われるくらいに重体だった。村上さんちゅうて、ここへ参ってくる、古賀先生のお母さんの従姉妹になられる方が、電話をかけて来られたんですね。「お願い致します」と言うて。いわゆる「助けてください」でした。それから、お取次させて頂いた。おかげ頂いたんですね。もう、ほんとにもう、それこそ不思議におかげ頂いとる。その、今日、思いをいろいろ話しておられましたが。
成程神様の働きというものを感じんわけにはいけんて。それでその方の話を夕方から、丁度、夕食でもさしあげて、まあ色々聞かせて頂いたんですけれどもですね。なんて言うんですか非常にこの、疑うことの少ない人ですね。話をしとればしとるほど私は段々お話させて頂いて、段々難しい話をする。その難しい話がですもうほんとに、「そうだそうだ」というふうに、こう向こうに吸収していかれる訳なんですねえ。
そのまあ、その方が、まあ、そういう風に素直な、ていう事なんか、まあ、創価学会の話もしておられたし、お母さんは生長の家を長年、信心しておると言われるのですから、まあそういう、自分もやはり、かじっとられるのでしょう。あの、創価学会的な言葉を使って、いろいろ話しとられるのを、私聞かせて頂いたんですが、まあ、そんな事を教えるのかもしれませんねえ。
先ずその、先祖の御霊(みたま)を助けにゃいかんと。お母さんの御霊さんがすがってござる。そこでそのご仏壇のお掃除をしたり、それでもやっぱりいかんから、こりゃどこか、まあ天理教的な表現ですね、一寸、私は聞きよってから。どこかその詰まっとると。だからおかげが詰まっとるとじゃから、こりゃあ流しばたを掃除せにゃいかん、ちゅうて、その炊事場の流しの詰まっとるところを、きれいに掃除したとか、ていうような事を人から聞かれれば、素直にそうするようなタイプの方なんですね。
なかなか頭のいい方で、もうそれこそ、字なんか実に達筆な。で、この人の話聞くと、大変頭のいい方らしいいんですけれど。頭の良い人にしては、実に、頭の良い人にしては理屈くくつを言わない人です。私の言うことが、こう、入っていくですね。その方の私、話を聞かせて頂きよりましたらね、その、楽室で、『如月(にょげつ)』と頂くですね。「月の如(ごと)し」と。まあ、この人、お月様のような心の持ち主だ、という事なんですね。それで私が、その話なかばに。
「あなたはね、とにかく、その、お月様のような、その、ものを<心>に持っておられるのだと。だから、あなたの場合は、場合によっちゃ、満月のように心が真ん丸、有り難い状態にあるかと思うと、そのかわりに、ちょっと雲がかかると、もうまっくらな闇になったり、三日月さんになったり、半月さんになったりするような感じだねえ、あなたは。そういう風に、まあ、頂くですよ」ちゅうたら、「まあ、それどころじゃございません」というわけですね。
だから信心とは、いつも自分の心を満月のような心に保つことなんだと。それを信心は教えるのだと。私今日は大変難しい言葉を使ってもここではね、言うならばここでは難しい言葉を使って、難しい事を私は今日は話したんですね。それが分かられるです。それであなたがですね、例えて考えてごらんなさいて。御霊様が仏様が、その奥さんのお母さんの御霊が、亡くなる時にそうにゃ、子供に思いを残したと。誰だって親が亡くなる時に、子供のことを思わんで死ぬ親はおりゃしませんよと。
それば一人助けたからというてですね、どうこう、そりゃ成程、先祖は大事にしなければなりません。そういう御霊さんがあるなら、それも大事にしなければなりませんけれども。例えば、何千年という、例えば、なになにさんの家の、んなら、御霊というものの中にはどういう御霊があるやら、分かりませんよて。言うならね、太平洋の中に、太平洋の真ん中でです、ね、ひとすくいの砂糖を投じますか。
塩分の中に糖分が入る。それが博多湾にまで、やっぱり、その糖分はもう、どれだけかの、いわば、あの、原子のね、その、原子的なその、一つの小さい小さいもので言うならばです、太平洋で砂糖を投じたら、その投じた甘味というものが、博多湾にまでも影響するようなものであってね。例えば、先祖の御霊を救うとかなんとか、そんくらいの事ですよて。ね。【 】これは、子孫として当然しなければならない。
先祖が《を》大事にしなければならない事は、間違いないけれども、それば救うたから、病気が治るといったような事は、いう意味のことではありませんて。それもありましょうと。ね、けれどもね、小さい、その御霊とかなんとかじゃなくてねえ、いわば大神霊(だいしんれい)、いわゆる天地の親神様を大事にしなければいけませんて。ねえ、小さい人間の霊(れい)ではなくて、この大神霊。
天地の親神様のお心にかなうあなたに、あなたがなるという事はですたい、あなたが助かるだけではなくてですたい、それが子孫にも残しておけますよて。それから、先祖の御霊にも響きますよて。ね。これが、あれが、もうそういう例えば難しい事を、私はいろいろ話したんですよ。それが分かられるですねえ。それよりも、私はあなたと一緒に今、お食事をさせて頂いたんだけれども、ね。
あなたがお醤油を、お漬物を使うてから、お醤油をたくさんかけられて、そして、それをそのまま、こうさげられるのを見て、わたしゃほんに、自分で横から頂きたいごたる思いがいたしましたち。ねえ。例えば、あの、炊事場の詰まっとる所をほがしたりするよりも、そのお醤油の、お粗末にしない事のほうが、言うならば、天地の大心霊に響きますよ、天地の親神様は喜んでくださりますよち。神様の造ってくださったお食物を大事にするという事だけでも、おかげ頂きますよと。
す〔る〕と、ハァーそうですか、先生。も、ほんっとに、そりゃ分からせてもらいましたと。私の爺(じい)も、父も、私も、家内が申しますと。あなた方、爺ちゃまでも、父さんでん、非常に醤油をお粗末にしなさる。と言われながらも、今までお粗末にしてきたと。心がけひとつで、丁度いい具合にかけられるのに、ガバァとかけよる訳なんです。これは醤油だけの事じゃない。一事が万事がそうなんだと。ね。
だから、言うならば、そのそういう事を大事になさるという事のほうが、神様の心に叶う、そういうお道の信心だという事を、いろいろ話したんですね。それがその、素直に入っていくですね。もう、ほんとに今日は、もう時間の立つのも忘れてから、その、有難い話を聞かせてもろうてから、有難かったと言うてから、先程、帰られましたです。ね。いわば、疑いというものをあまり知らない人。ハハァー、こういう様な人だから、こういうおかげも頂けたんだな、と私思うたんです。ね。
その村上さんという人から、椛目の話をこんこんと聞かせてもろうた。もうほんとに、村上さんも涙を流して説かれるから、私もつい、男泣きに泣いてから、それを聞かせて頂いたち。素直に入った訳なん〔です〕。ハァー、そうでしょうね、そうでしょうね、と言うて頂いた訳なん〔です〕。ね。それが、いわばそういう重体、いわば九死に一生というようなおかげも頂けたのだという事。ねえ。信心をさせて頂けば、先ずうたがいの雲をはらえよ、とおっしゃる。
「先生、ああ言いなさるばってん、ほんなこっちゃろか」と。だからほんなこつしだごだになってしまう。そこで私が思わせて頂きますのはです、今日その方にも申しましたが、とにかくここでは金光様の研究をする勉強をなさる、なかなか勉強家らしいですから、勉強なさるならば、そういうような事を勉強なさらないけません。そしてそんならここでは私を勉強しなきゃいけません。私のどこからあれが生まれてくるか。
私のどういう信心から、こうした一つの無尽蔵的なおかげが、その、続けて頂けておれるかという様な事をです、あなたのために私が、解剖台の上にもあがってあげますから、私を解剖してから、ひとつ、その勉強なさらなきゃいけませんと。ねえ。そこから、いわば、「ハハァー、この先生の言わっしゃる事ならば、間違いがなかろうと。いや、間違いはない」と確信づけられるところにですね、教祖の教えられたような、教祖が私共に約束しておられるような、ね。
天地の親神様のおかげが頂けれるようになるのだという事。ね。ですから、先ず、その、お道の信心を研究しなきゃいかん。先ず、取次者を研究しなければいかん。ここで私を皆さんが研究なさらなきゃいけん。ね。そして、疑いの雲を払わしてもろうて、先程の下関の中林さんの話じゃないですけれども、半信半疑であったから、やっぱり目ん玉も半分しか助からじゃったと。あん時、私が言うことを、先生がお取次させて頂いてから、言うたことを信用なさったら、両方の目が助かったにちがいないのです。
だからこれじゃいかん。これはやっぱり、神様におすがりせにゃいかんとなってくるる時、片方の目が生きてきた。ね。だからこれを、もっともっと、今の熊本の、何とか、坂本さんといいますが、坂本さんのようにですたいね、素直に信じておられたらです、私はもっと丸々おかげになっただろうとこう思うです。ね。これはまあ、浅い深いは、という事においてはです、そりゃ初めて参った方ぐらいですから、心からまんから信用されたという訳でもないでしょうけれども。
根がそういうふうに、疑いをあんまり知らないような、タイプの方なんですね。そして私と、こう面接しておる間にです、言われることがですね、まあ言うなら、何と言うですかねえ(笑い)、先生の言われることはです、いちいちもっともだ、という意味のことを言われるんですね。だから、いちいちもっともだ、と合点されるというところに、もうおかげが約束される訳なんですねえ。そりゃそうばってんと、いうような頂き方じゃない訳なんです。ね。
しかも私が、今日は天地の、その、道理のことについてです、難しいことをお話しましたけれども、「ハアー、そんなもんですか」と。「創価学会で聞かせて頂いたそれやら、これやら、あれやらといったようなものがです、先生のお話を聞いて、よう分かった」と、こういうふうに言われるです。ですから、私共が先ず、ひとつ、疑いの雲を払わせて頂けるための信心を、先ず、しなければいけないという事になりますですね。おかげを頂かなければなりません。